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ジャンヌの生い立ち


『ジャンヌの生い立ち』

私は1973年6月6日に
東京都荒川区の紅露医院という所で
次女として生まれました。

女子医大病院で流産を言い渡された母が
諦め切れずに他の病院を探し回り、
紅露医院で奇跡的に生まれました。

ホルモン注射をたくさん打たれての難産で、
生まれて来た私は女の子なのに
毛むくじゃらだったそうです。
(男性ホルモン注射のため。)

幼稚園入園を控え、両親が八王子に家を購入。

八王子の片田舎に引っ越すことになり、
そこで中学2年生まで過ごすことになりました。

幼少期は軽い言語障害で言葉が遅く、
学校であまり友達ができなかったため、
担任の先生とばかり話をしていましたが、
小学校1年の時大好きだった担任の先生が
通信簿の親への通信蘭に
「田中さんの話を聞いていると日が暮れる。」
と書いたのを見てショックを受け、
それ以来先生とも話ができなくなり、
本と芸術にのめり込みました。

本をもっと読みたいのと、
貸し出し禁止の芸術書に目を通す時間がもっと欲しいという理由で
図書委員になる程で、
本は小学生にして1日4~5册ペースで読んでいました。

芸術書という芸術書にも毎日目を通し、
美術館にも通いつめていたため、
小学校6年生にもなると
ピカソやゴッホ、ルノアールやミケランジェロのような超一流画家と
それ以外の歴史に名を残した著名画家との
作品の深みの差が分かる程、
目の肥えた子供になっていました。

また、霊感が強く、夜になると映画「シックスセンス」状態で
暗所恐怖症になり、
電気をつけたままでないと寝られませんでした。

小学校3年生の時、
本ばかり読んで友達を作ろうとしない私は、
「根暗(ねくら)」というあだなをつけられ、
軽いいじめにあって登校拒否を起こしました。

その際母に連れられ
精神科で訳の分からない心理テストのようなものを受けさせられた上
「感受性が人一倍強いですが、生きて行くのに支障はないでしょう。」
という何の役にも立たない診断をされたのが原因で
精神科医に疑問を抱くようになり、
中学に入ると心理学や精神医学の本を読みあさるようになりました。

小学校5,6年生では学校で友人を作る努力をしましたが、
小さなグループ同士のくだらない勢力争いや、
グループ内の陰口の叩きあいなどに耐えられず、
近所の幼馴染みや習い事で出会った友達を除いては、
信頼できる友達はなかなかできませんでした。

また、この頃から
容姿が良く何でも器用にこなす4つ年の離れた姉とよく比べられ、
外見や要領の悪さにコンプレックスを持つようになりました。

6年生の時、好きになった男の子に
バレンタインデーにチョコレートをプレゼントすると、
次の日クラス全員に知られていてひやかされ、
恋も破れて男性恐怖症になりました。

小学校時代は割とおとなしかったので、
よくからかわれたりしましたが、
内面喜怒哀楽が非常に激しく、
時として爆発すると
相手を無意識で背負い投げするという恐い癖を持っていて、
自分でも心配でしたが、
幸い大事になることはありませんでした。

また、成績は全般的に割と良かったため
学級委員や班長に任命されることも多々ありましたが、
責任感とプレッシャーに耐えられず
辞任させてもらうこともしばしばでした。

酒好きの父のひざに抱かれ、
幼稚園の頃からビールを飲まされていたため、
小学生にしてビールの味が分かる怪しい子供でもありました。

中学に入ると仲良しグループもできるようになり、
一番の親友の影響を受けてパンクロックやパンクファッションにはまり、
金髪に開衿シャツで学校に通うようになりました。

またその頃暴走族の頭とつきあい
「積み木くずし」状態だった姉の影響を受け、
たばこも吸うようになりました。

祭りの時などは公衆の面前で
ビールを飲んだりたばこを吸ったりしていたため、
先輩に随分目をつけられ、呼び出されたりしましたが、
姉のおかげで痛い目に合うことはなんとか免れていました。

女子のみのテニス部に入部し、
ボーイッシュで金髪だったためか、
2年生になると後輩からもてるようになり、
バレンタインデーには30個ものチョコレートを
女の子達からもらうことになりました。

その頃世間は高度成長期の真只中で、
第二次ベビーブームの頂点にいた私達は、
『受験戦争』と呼ばれる
偏差値と成績でアイデンティティまで判断される
異常な世界のプレッシャーにさらされていた年でもありました。

そんな中両親は、家のローンを払い終え、
地価高騰の波に乗るため、
家を売って父の両親の住む足立区に
流行りの二世帯住宅を建てることになり、
中学三年生で足立区に引っ越すことになりました。

八王子で通っていた中学は
所謂高学歴のエリートサラリーマン家庭がほとんどで、
公立にも関わらず平均偏差値が都内トップということで有名な学校で、
生徒は個性のない優等生が多い学校でした。

それが当たり前だと思っていた私にとって、
足立区の下町落ちこぼれ学校への転入は
大きなカルチャーショックでした。

下町の成績は悪いけど
明るくて人の良い新しい学校の生徒達は、
転校したてでいきなり成績首位に躍り出た私を「天才」扱いし、
尊敬してくれました。

私は混乱し、そして天狗になりました。

放課後は有名進学塾に通っていたので、
学校での授業は退屈で寝てばかりいるという感じの悪い生徒で、
とてもプライドが高く自信家で、
成績の悪い生徒を見下していましたが、
心を開ける友達は少なく、
とても孤独でした。

その後受験間際になって
学校や親からの過剰な期待が大きなプレッシャーとなり、
またその時つきあっていた人の影響をも大きく受けて
高校に行くことを拒否するようになり、
猛反対する先生達や親達から逃れるため
家出を繰り返しました。

結局教育指導の先生の
夜中までにも渡る説得に根負けして高校受験を承諾。

「自由な校風」を売り物にしていた某有名大学付属高校に入学。

しかし実際行ってみると、
小学校、中学校からエスカレ-タ-式で上がって来た生徒がほとんどで、
価値観やカラーが全く合わず、
三ヶ月で自主退学を決意。

反対する学校や親に対して、
またも強行突破のための家出を繰り返し、
かなり危ない橋を渡り歩くことになりました。

その後雑貨屋でアルバイトを始めるも、
親への高校進学費用返済のため食事するお金もなく、
栄養失調で度々倒れては
店長や先輩達におごってもらうという日々が続きました。

結局半年程で身も心もボロボロになり、
親に白旗を揚げ大検予備校に通う事になりました。

大検予備校では授業はほとんど受けませんでしたが、
世間では落ちこぼれと呼ばれる
人間味があって一生懸命生きてる不良仲間と共にする時は
最高の思い出になりました。

学校へはスクーターで通っていましたが、
人身事故を起こし、相手に重症を負わせたため、
家庭裁判所に行くということもありました。

私は幸い軽傷でしたが前歯を失うことになりました。

その約8ヶ月後、大検でほとんどの科目を取り終え学校を去ります。

その後母の苦肉の策により美大への進学を目指すことになり、
予備校に席を置きましたが、
実際学校にはほとんど行かず、
日雇いの肉体労働に励んではその時つきあっていた人に貢いでいました。

その頃はその相手とも口論が絶えず、
別れたくてしかたがありませんでしたが、
相手の自殺未遂などで別れられずにいました。

毎日の生活は苦痛以外の何物でもなく、
何の為に生きているのか分からず、
先の見えない不安で毎日死ぬことばかり考えていました。

一浪の末、某美術大学短期大学部に進学。
それを機にその人とは別れ、
心機一転、過去の全てを水に流して
幸せな人生を歩む決心をしました。

プロダクトデザインを2年間勉強し、
「中国でバイク会社を作り、中国の自転車をバイクに変える」という
壮大な夢も生まれました。

バブル崩壊の次の年、卒業を迎え、
日本での就職を諦め
姉の誘いによりオーストラリアに留学することになりました。

半年現地の英語学校に通った後、
現地の工科大学に進学し工業デザインを学びました。

大学の同級生の紹介で
エディ(今のボーイフレンド)と運命的な出会いを果たし、
大学の長い休みには、
二人で始めたビジネスや
エディが購入するための家探しに時間を費やしました。

オーストラリアでは、語り尽くせない程の人生を変える出合いや
数々のストレッチがあり、
精神的に大きく成長することができました。

様々な人種や文化が融合する移民国家で視野も広がり、
環境保護や社会貢献にも目を向けられるようになりました。

4年後帰国の途につき、
日本でデザイナーとしてのスタートを切りました。
エディも英語教師として東京で働き始めました。

1年間デザイン事務所で過酷な修行に絶えた後、
前職に就きました。

エディも本職である機械設計エンジニアとして
日本企業に就職が決まりました。

その後少し生活に余裕が出来て来た所で、
大学時代からの課題だった時間管理を勉強しようと、
自己啓発の世界に入りました。

そしてナポレオン・ヒルプログラム、
神との対話、聖なる予言、7つの習慣、
恩師であるジェームス・スキナー氏などとの運命的な出会いにより、
また大きく人生が変化し、今に至ります。


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